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無断転載とコンテンツ産業としての著作物

無断転載について著作物・著作権法の議論をするときに、最近よく目にする意見は「商業価値」に関するものである。知的財産に関する一般からの主張に共通しているのは、特に「商業的な価値に重点が置かれている」という点であるようにみられる。

著作権は大きく分けて「財産権(法文上は単に「著作権」)」と「人格権」の2つに分類できる。このうち産業的な側面で著作物を保護するのが「財産権」である。財産権には「複製権・翻案権・上映権・公演権・その他」が含まれる。これらは著作物が市場に出回る際に、その保護を目的として作られた法律である。
一方、人格権には「氏名表示権・同一性保持権・その他」が含まれ、著作物の利用における著作者の人格保護を目的として作られた法律である。

著作権法に則って無断転載の問題を語るときに「商業的価値」である「財産権」についてのみ追求され、著作者の持つ「人格権」については無視されることが多いように見受けられる。
例として挙げると「無償で発表された作品であれば、そこには初めから(単独での)商業的な価値は存在せず、無断転載において損失・実害はない」といった場合である。このような場合に「損失がない」とされるのは、金銭発生の有無という限られた部分のみであって、権利者としては「複製権・公衆送信権」「氏名表示権」などの権利が侵害されているといえる。

著作権法は「文化の発展に寄与すること」を目的としており、権利の多くには著作権者の「金銭的な利益」を保護することは明文化されていない。明文化されているのは「著作者隣接権・貸与権」にある「著作物の利用に関して使用料・報酬を受ける権利」である。それに以外に「金銭」に関する記述があるのは罰則における「保証金」であるが、これは「報酬」とは異なるので除外する。

上記を除く財産権・人格権のいずれにも「金銭の報酬を保護する」旨は示されていない。
であるにも関わらず、「商業的な価値」や「金銭の有無」についてのみ語られる傾向にあるのは何故なのか。著作権法の目的である「文化の発展に寄与する」ことが、「金銭の報酬」についてのみ着目されているように見える源流は何処にあるのだろうか?



昨今、インターネット上ではコンテンツ産業が盛んである。その中で著作物も多く活用されている。絵や文章、動画や音楽など、その形態・態様は様々である。「コンテンツ産業」という言い方をあえて強調するが、コンテンツ産業はデジタル以前から著作物の内容(コンテンツ)を売り物にしてきた。CDに含まれる音楽、DVDに含まれる動画、ROMに含まれるプログラム、冊子に含まれる絵画・文章などの著作物を基とする産業である。

社会的にコンテンツについては産業的な面が強く、「作品」である著作物も「商品」として扱われるの認識が強くなった。「表現のための作品」ではなく、「産業のための商品」という見方である。
コンテンツ産業においては、作品としての表現性や作者の人格よりも、産業のための商品価値が優先される場合があり、表現のための作者の意志よりも、商業作品としての「売れるか売れないか」といったことが判断の基準として優先される事実も認められる。

これら「表現」と「価値」のどちらを優先させるべきかという戦いは、作家と編集者の戦いそのものである。しかし、昨今では「表現のために書く」のではなく、「生活のために書く」といった部分を根幹とする書き手も少なくない。そのために常に「商品」としての価値が優先され、作品としての「表現」が欠如している場合もある。それでもコンテンツを売買し、生業とするためには必要とされる判断である。作家も、出版社やレーベルといった組織からのバックアップを受けるためには、より商品価値を高めねばならず、表現の一部を犠牲とすることがあるのも致し方ない事実ではある。

このようなコンテンツ産業においては、著作権も財産権として活用され認知する機会が多く、人格権については「氏名表示権」や「同一性保持権」などが粛々と守られている。コンテンツ産業全体が上述したような雰囲気で営まれていた場合には、個の人格から成される「作品」という表現よりも、「商品」という価値が優先され、そのために「財産権」が殊更に強調されるのも必然といえる。
「人格権」に関する「氏名表示権」などについては、業界内でも通例とされるほどに認知されており、問題となることもないため表立って注目されることはない。それよりも産業としては利益・損害に関わる「金銭」についての問題に着目しやすくなっている。(企業による訴訟や、個人での抗議)

このような背景を受けて、コンテンツ産業を通して著作物に触れる一般大衆も、著作権に対する意識としては「財産権」を強く意識するようになったことが推測される。
そのために著作物の違法な複製や頒布などについて「商業的な損失」が一般的な判断の基準となることは、コンテンツ産業からもたらされた価値観に起因するところが大きいのではないか。



著作権法の目的に戻れば、著作物保護の目的は「”文化”の発展に寄与すること」であり、「”産業”の発展に寄与する」ためではない。間接的にそれに関わる事実は認められるが、著作権法は「産業の発展」自体を目的とはしていない。
無断転載などで議論となる際に、著作物の扱いに関して「商業的な損失の有無」のみを問うのは産業的な側面からの主張である。もちろん著作権者は著作物に対し財産としての権利も有するため、財産権としての側面も考慮されるべきではあるが、人格権として文化的な側面から作者や作品を見れば、保護されるのは作者の思想・感情を表現するために創出された「作品」であり、そこに含まれる作者いち個人の「人格」であるといえる。

人格とは、基本的な人権とされ「生命」「財産」「名誉」などを尊重するものであると憲法にも含まれる。著作権法における「人格権」は「名誉」の部分に関わることが多く、氏名表示や同一性保持などはそれに関わるものである。
この際に名誉とは他からの批評を受ける権利に値する。氏名表示や同一性保持がなされない場合には、作者はこれらの機会を損失し、権利が侵害されていると判断できる。

氏名表示が正しくなされなければ、作品が誰のどのような思想や感情を表現したものであるか判断しづらく、そこから派生する批評なども正しく作者が受け取ることができない。批評については賞賛であれ、叱咤であれ、それが次の作品を生む動機にもなりうる。氏名表示などがなされないために、作者から新たな創作の機会を奪ってしまうのは、文化的な損失であると判断できる。(批判のために作者が創作を止めてしまう危険性も考慮されるが、批判が必ずしも表現の欲求を妨げるものではないとの観点から、これを否定する)

また同一性が保持されない場合には、作品に込められた思想・感情が作者の意図した表現と異なった伝わり方をすることが考えられる。そのために作者の名誉が保たれないのであれば、それも権利の侵害であり、上記に続いて正しい批評が受けられないことから文化的な損失が予測される。

作者の思想・感情として表現された作品のみが一人歩きする結果となった場合に、財産権としての損失が軽微であっても、人格権としての権利はまったく無視されている可能性が考えられる。
このために無断転載等においては財産権のみならず、作者の人格権にも憂慮し、氏名表示や内容の同一性が保たれることが望まれる。
それをもって文化の発展が成されたのであれば、まさしく著作権法の目的が達せられたといえる。
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