スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

会田誠氏のモニュメントフォーナッシングIVにおけるツイートの無断使用について

はじめに


こういった記事を書くと「このように世論に反応が起きることこそ、作品(氏)の狙い通りなのである」という意見を見ることがある。だが私はあれを芸術品だとは認めていないし、会田氏をあの作品においては芸術家とも認めていない。このように書くと氏の人格を否定しいるように捉えられるかもしれないが、私がここで指摘するのは氏の行動とその結果であり、人格に関しては触れないつもりだ。つまり実際に起きた事実のみを法とTwitterの利用規約に照らし合わせ、純粋に取り上げてみようという試みである。

さて、まずは「モニュメントフォーナッシングIV(以下ナンバリングは省略)」という作品であるが、これはインターネット上のTwitterというサービス上に投稿された文章を基に形成された作品である。利用された文章は会田氏のものではなく他人のものであるという点において、他者の表現を用いたコラージュ性の高い作品だといえる。

この時点で「他人のものを勝手に使うなんて」と抵抗を覚える者もいるだろう。そういった反応がこの事例の根底には常に存在している。これはごく原始的なものだ。動物にはいわゆる「縄張り(テリトリー)」があり、生きていくために己の領域を保護していく必要がある。それを最小限に留めても「自分」という個人を守ろうとする生存本能が働く。

このように説くと「法を論拠とする」といったことに全く関係がないように思われるかもしれないが、私は法というものの根底にあるのはまず「人権」だと理解している。つまりあらゆる法においてまず尊重されるべきは「個人(あるいは企業)」といった「一個の存在」であり、複雑な知的財産の権利問題を解きほぐしてみても、最初から最後まで変わらずに必ず残っているのは常に「一個の存在を無視した」という点だと考えている。

会田氏のモニュメントフォーナッシングも他者の存在、その権利を無視した作品だといえる。無視したこと自体に意義があったのだする主張もあるが、そのことへの反論は後にしよう。ここではまず法的な権利について語っていく。


法的な観点


我々は個人として人権を獲得し、その基で法による保護がなされている。しかしその全てが無条件に保護の対象となるわけではない。特に今回使用されて問題となっている「ツイート(Twitterサービス内における投稿)」に「著作権」という権利が認められるか?という部分はひとつの争点になる。
著作権が認められるには「思想・感情を表現したものであるか」といった点が主に問われる。「著作権」は「知的財産権」と呼ばれる大きい括りの中にあるひとつの権利であり、同類の権利として「商標権」「意匠権」「特許権」などがある。著作権がこれら他の権利と異なるのは無方式主義という方式により、役所などに申請をしなくても権利を獲得し保護の対象とすることができる点である。ただしそのためにクリアしなければならない条件のひとつが上述した「思想・感情を表現したものであるか」といった点である。

ではツイートがこれに該当するか?という点を考えてみよう。よく見る反論の中には「”おはよう”や”○○なう”といった内容だけのツイートに著作物性など認められない」というものである。この指摘は間違ってはいない。著作物性を認められるにはある程度の創造性・独創性も求められる。簡単な単語や文章にまで著作権を認めてしまうと我々は言葉を紡げなくなってしまう。つまり言葉の組み合わせで「何が表現されたか」が重要な点であり、言葉や単純な文章自体は著作物性をまだ持っていないのである。
この点で簡単な文章は著作物性がないために法的な保護の対象にはならない…と、結論だけ述べればそうなる。このことから「ツイートの140文字という短い文章に著作物性は認められない」とする主張も見ることができる。しかし難しいのは「5・7・5」という非常に短いながら著作物性を認められる俳句という文化が日本には存在している点である。17文字に対してツイートは140文字である。私は140文字でも充分に著作物性を持つことは可能だと考えている。「140文字だから著作物性は無い」と簡単には否定できない。

では論を進めて、仮にツイートに著作物性が認められたとして、ツイートが他者の作品に使われたことは違法なのか?適法になるのか?といった点を説いてみよう。
著作権は「親告罪」という方式をとっており、権利者が申し立てを行わないと罪を問えない形式になっている(2013年3月現在)。この点で違法とするにはツイートの権利者が会田氏の作品に対して訴えを起こす必要がある。こうして初めて罪に問える。このことは実際に罪に問う場合に必要なもので、作品に違法性があるか否かは、それ以前の「著作物性のある他者のツイートを無断で使用している」という時点で成立する。権利者が訴えを起こさないから無実であるということはない。無断使用した事実はすでに発生しているのだ。

私は会田氏の作品には違法性があると判断する。使用されたツイートのすべてに違法性があるかは検証の余地があるが、いくつかは適法であり、いくつかは違法になるだろう。それは上述したように使用したツイートに著作物性が認められるかという点が争点になる。しかし著作物性が認められたとしても著作権法には「制限規定」があり、著作物の無断使用のすべてが違法となるわけでもない。おもに「公正な利用」に基づく著作物の使用は法でも認められた権利である。

例えば図書館で本を貸し出しする行為や、学校で教材としてビデオの放映などを扱う場合である。レンタルビデオなどとの差異があるので判断は難しいかもしれないが、主に公的な機関で用いられる場合には著作権が制限されることが多い。美術館がこれに該当する規定は無い。あるのは「著作者の許諾を受けた場合にのみ」とするものである。(著作権法 第五款 四十五〜四十七条)
この点で「会田氏の著作物として」許諾を受けた森美術館におけるモニュメントフォーナッシングの展示は合法的なものであり、他者の著作物を使用した展示であるということは、展示した森美術館側に及ぶ問題ではないと、この時点では判断する。

このことは二次的著作物を巡る判例(過去の裁判)から学ぶことができる。偽物の美術品を複製して販売した美術家Aがいて、それを転売した美術商Bと、それを買い取った美術愛好家Cの3人がいたときに、Aが取り扱ったものが違法なものだとは知らずにBがCに売った場合、BC両者が被害者となりうる。しかし、もしBが「Aの美術品は偽物である」と認知してCに販売した場合には、AB両者が加害者となりうる。
つまり仲介人が違法性を問われるには「それが違法であったかどうか」を事前に認知していたか否かが争点となる。この点で森美術館がモニュメントフォーナッシングを公表前から「違法性がある」と認知していたか否かは重要な争点となる。もし違法性を認知しながら展示を行ったのなら、森美術館も他者の著作物を違法に展示した罪に問える可能性もある。(ツイートの著作者は美術館側に展示を許可していないので違法性が指摘できる)。

公正利用に関してツイートの使用は「引用」であると主張する者もいるが、他者の著作物を美術品に用いることが日本における著作権法で「公正な利用」と認められないことは俗に「パロディ事件」と呼ばれる裁判で有名である。このことから日本では他者の著作物を無断で用いたコラージュ的な作品は常に違法性と隣り合わせであるというのが美術方面での一般的な見識である。

以下引用に関する法文を見てみよう。


第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
2  国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。

(著作権法 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO048.html 総務省WEbサイト 平成24年改訂より)


具体的にモニュメントフォーナッシングのどの辺りが著作法の定める「引用」にあたらないかというと、「パロディ事件」では「自己の著作物を創作するにあたり、他人の著作物を素材として利用することは勿論許されないことではないが、右他人の許諾無くして利用をすることが許されるのは、他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合に限られる(Wikipedia - 著作権侵害)」として他者の著作物をそのまま用いることへの主張を退けている。
”報道、批評、研究その他の引用の目的”において「美術品」が「その他」に含まれるのかは議論の余地が残るが、いずれにしろ上記によって引用は否定される可能性が高い。つまりツイートの引用を主張しても、美術品等にそれらを用いることは公正な慣行に合致しない行為であると判断されることが考えられる。

そもそも引用においては主文と引用部分において「主従関係」が求められる慣習がある。批評文などが主であり、引用部分がそれに従う形になっていることが求められる。例として、私のこのブログ記事は「主」であり、上記の引用部分は「従」となっている。(※そもそも法文などは著作物に定義されていないので引用の要件を満たす必要も無いのだが)
会田氏の作品全体が「主」であり、ツイートはその「従」であるとする主張も見た。なかなか面白い見方ではあるが、それが裁判で正当と判断されるかは非常に疑わしい。理由としては「従」であるはずのツイートを削除した場合に、「主」となる部分が残らないのは「主従関係」を定義できないのではないかと私は考える。

ついでにパロディ事件との差異を語ると、パロディ事件は写真を切り抜いて使用しており、この点で「同一性保持権(*1)」の侵害も指摘できるが、モニュメントフォーナッシングは他者の著作物をそのまま用いており、ツイートを単一の著作物として定義した場合には同一性保持権の侵害はないと判断する。(一部欠けているという報告もある)
しかし他者の著作物を無断で用いたという点、そして上述したようにそれが引用とは認められないであることから公正な利用には当たらないと判断する。
*1 同一性保持権: 著作物の同一性を保持する権利。改変などを行うと侵害とみなされる。

著作権法の制限規定には「出所の明示(第五款 三十八条)」「複製物の目的外使用等(第五款 三十九条)」といった条件が課せられる。これは「引用」のみならず他の様々な公正利用においても同様であるが、モニュメントフォーナッシングにおいてこれらの条件を満たしてるかは保証が難しいと私は判断する。
「出所の明示」に関してはツイート内に著作者のハンドルネームなどが明示されていることからも適法である可能性が高い。しかし「複製物の目的外使用等」の四十九条の一においては、「他者の作品を自身の作品に無断で使用すること」は適当な目的として定められていない。


第四十九条  次に掲げる者は、第二十一条の複製を行つたものとみなす。
(第二十一条  著作者は、その著作物を複製する権利を専有する。)

第三十条第一項、第三十条の三、第三十一条第一項第一号若しくは第三項後段、第三十三条の二第一項若しくは第四項、第三十五条第一項、第三十七条第三項、第三十七条の二本文(同条第二号に係る場合にあつては、同号。次項第一号において同じ。)、第四十一条から第四十二条の三まで、第四十二条の四第二項、第四十四条第一項若しくは第二項、第四十七条の二又は第四十七条の六に定める目的以外の目的のために、これらの規定の適用を受けて作成された著作物の複製物(次項第四号の複製物に該当するものを除く。)を頒布し、又は当該複製物によつて当該著作物を公衆に提示した者


上記を読み解くと、制限規定に定められた目的外に著作物を複製した場合には、第二十一条「複製権」を侵害する行為とみなすことができるというものである。モニュメントフォーナッシングは上述してきたように著作権法の定める制限規定にも含まれないと判断されることから、複製権の侵害であると指摘できると同時に、引用などの公正利用には当たらないと判断できる。

さて、ここまで長くなったが氏の作品の違法性は免れない事実だと私は判断する。もちろん使用されたツイートに著作物性が認められるかといった点で検討の余地は充分なまでにある。しかし万一にも違法と認められるのであれば何かしらの対応はやむなしとされる。当該ツイート部分を削除するか、または作品全体の使用を停止させられるか。その確認のために美術館に足を運び、裁判を起こしたのならそれら費用も請求できるだろう。その場合に美術館も対象に含めるか否かは訴訟の程度によるが。上述したように森美術館が「事前に違法性を認知しながらも展示をした」のであれば法に問える可能性は高い。

法的な論拠を語るうえで、米国著作法の「公正利用」にあたる「フェアユース」を持ち出すことがあるが、これと同様の制限規定は日本法には含まれておらず、あくまで「仮定」の話でしかない。「フェアユースがあるから非商用であれば問題ない」といった商用・非商用を問う議論は日本法では判断の基準にならないので注意したい。
日本の著作権法で金銭の有無が問われるのは「損害賠償」など、賠償金の請求に関する場合であり、作品の商用・非商用といった態様によって侵害の有無が問われることは一部の制限規定を除いて存在しない。


Twitterの利用規約について

次にTwitterの利用規約の面からツイートの無断使用という事実を見てみよう。
上述してきたように法的にはツイートに著作物性が認められれば、著作権の侵害を問うことは充分に可能であると判断できる。しかしTwitterには「リツイート(以下RT)」と呼ばれる公式機能があり、さらに利用規約には他者が自身のツイートを条件付きで使用することを許可している規約もある。

このことから「ツイートは無断使用される前提である」とする主張を見るが、正確には「条件付きで無断使用される」ということであって、無条件にすべてが許されるというわけではない。つまりは著作権法における「公正利用」と同様に、適当な使用方法と合致しなければ規約違反として制限範囲外の行為とみなすことができるのである。
この点で氏のモニュメントフォーナッシングがTwitterの利用規約に則って他者のツイートを無断利用しているかというと、答えはすぐにNOである。

Twitterの利用規約によって保証されている範囲は以下の通り。


コンテンツまたは本サービスの複製、修正、これに基づいた二次的著作物の作成、配布、販売、移転、公表、実演、送信、または他の形での使用を望む場合には、本サービス、本規約またはdev.twitter.comの定めにより認められる場合を除いて、Twitter APIを使用しなければならない。

(Twitter / サービス利用規約


RTなどによって自身のツイートが無断で複製されるとして、それはTwitter APIという公式機能に則って行われた場合にのみ免責となるということである。APIとは「アプリケーション・プログラム・インターフェイス(Application Program Interface)」の略称で、その内容はシステムの基盤となっているプログラムを指す。つまりTwitter公式の基本的なプログラムに従う形で作られたサービスにおいてユーザーは、自身のツイートが無断利用されることを利用規約に従って事前に許諾しているという形になる。

Twitterに馴染みのない方には理解が難しいかもしれないが、「クライアント」と呼ばれる外部アプリケーションなどがそれに該当する。他にもWEB上の「ふぁぼったー」などのサービスがそれに当たる。これらサービスは勝手に情報を収集して蓄積する。自分の知らないところでツイートが複製されて公開されていたりもする。
しかしこれは利用規約に則ってユーザーが事前に許諾していることなので違法にはならない。そして上述したようにAPIに従っている限り利用規約違反にもならない。
ツイートの無断利用はこういった条件下で広く行われている。

さて、では氏のモニュメントフォーナッシングがTwitterのAPIに従っているかというと、そんなことはない。そもそもTwitter APIや、WEBサービスとは全く関係のない紙に出力された状態で勝手に並べ替えられたり貼付けられたりしているのだから、利用規約による無断使用の適用範囲外である。
この点に関して「紙に出力するためのプリンターがTwitter APIと連動してたら?」という面白い意見があった。しかし例えそうであっても認められるのは「紙に出力するまで」であって、出力されたものを展示する許可までは認められないだろうと私は思う。(そもそも氏がそれを想定していたかは次の項で否定される)

このAPIに関する意見でもっとも面白く、合理的で合法的な発想だったものは「Twitter APIを使用したサービスにツイートを配列して、巨大モニターで表示(展示)する」というものである。なるほどこれはまったく同じように作品を展示できるうえに、合法的であると判断できる。この手法なら多くの人が唸り声をあげつつも「上手くやられた」と納得したことだろう。

先ほどのプリンターの件と併せて例に挙げた手法が取られなかったことは、そもそも氏にTwitterに関する理解がなく、こういった発想や着想がなかったのではないかという推論を裏付けるものとなっている。
このことで森美術館などからは「そもそも違法性を内包し、それを社会に問う作品」といった旨のコメントも出されているが、それだとこの記事で法的な問題を説いたところでの「違法性を知りながら展示した」という点で美術館側にも責任が生じてくる。

「インターネット上のものが現実に使われたから憤りを感じているだろう」といった意見を見ることもある。しかしこの意見はまったくの誤解である。そもそも「インターネットは現実の延長」だということを認識してもらいたい。現実に法で守られるものはインターネットでも守られるし、インターネットで法を犯せば現実に裁かれる。インターネットと現実は、世間や法律とは隔絶した別の場所というわけではない。


作品の価値


ここで方針を変えて、違法性があったとしても、モニュメントフォーナッシングに作品としての価値はあったのか?という点を私なりに考えてみたい。
芸術的な作品に違法性があったとしても、それは作品の「芸術的な価値」とはなんら関係がない。それは私も認めるところだ。つまり違法性があるということは「社会的な価値」としては認められないということであり、芸術的な価値はまた別にあるのだ。

しかしそれでも私はモニュメントフォーナッシングに芸術的な価値があるとは思っていない。それは作者の主張が見えてこないからだ。
作品自体は原発に関する発言を集めたものである。だからなんだと言ってしまえばそれまでであるが、例えば反原発なのか、原発支持なのか、そういった対立そのものを否定したものなのか。それも不明である。

そのうえ、上述してきたように著作権の法的な問題を指摘されると今度は「そこが作品のテーマ」というような発言が出てきたりと、何が主題なのかわからないまま右往左往している印象しか無い。

仮に原発に関する問題を取り扱ったものであるなら、著作権法的な問題は別のものとして処理するべきである。「私はこの作品を通して原発の有無を問いただしたかった。だがそのことと他者のツイートを無断で使用したことは別の問題だ」といった意見が出れば、ユーザーもなるほどと納得したかもしれないし、作者が後に必要な対応をすれば良い印象を抱いたかもしれない。

あるいは他者の著作物を用いたことが作品の主題であるなら、違法性も甘んじて受け入れるべきである。つまり「シミュレーショニズム(盗作主義)」を作風とするのならば、合法になった瞬間に作品の価値は失われるのである。ここで問われるべきは「例え訴えられても私は自分の表現を否定することはしない」という確固たる意志なのである。しかし氏は後に「問題があれば当該部分は墨で消す」といった旨を発言しており、なんとも情けないとしか言いようがない。もし一部分でも否定されれば、それは作品全体が死ぬことを全く理解していない。一個消してしまえば後は何でもありになってしまって「じゃあ俺も」「それなら私も」「俺は別にいい」「勝手にしろ」とグダグダになる。それを当人たちが芸術と言い張るのは結構だが、私にはそれが芸術だとは思えない。


終わりに


最後になるが私が最も尊重すべきだと考えているのは「他者の存在」そのものである。不要なまでに他者を押しのけてはならないし、排除してもならない。その考えの基で著作者人格権というものをみれば、著作物の無断使用という事実は他者の人格、存在そのものを全く無視した行為だと私は考える。
財産的な損失があるかないか、違法な複製が行われたか否か、確かにどれも無視できない事実ではある。しかし著作物を無断で利用する行為は、そこにある著作者の人格や存在そのものをないがしろにする行為なのだという最も根本的な部分である。

このことは法以前にマナーや倫理で問われていることだ。たとえ法に足を進めても行き着く先は同じ。「一個の存在」をいかに尊重するかということだ。一回りして戻ってきたようにも感じる。「法で決まっているから人を殺してはいけない」のではない、「人を殺してはいけない」から法で定められているのだ。法の裁きを受ける前に、人は倫理をもって自ら判断しなくてはならない。改めてそう考えさせられる。

「理性によってのみ我々は人間となる(ルネ・デカルト)」
リンク
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
プロフィール

idsuru

Author:idsuru
http://www.idsuru.com/

最新記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。