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艦これと二次創作 ~批評としての二次創作~

角川ゲームスより配信されているブラウザゲーム「艦隊これくしょん(以下、艦これ)」には明確なストーリーはない。
背景として史実はあれど、創作にそれが強要されることもない。ただ艦娘の創作においては、史実が背景にみえる作品の方が厚みのある表現として評価される傾向にある。これは内容におけるシリアス・コメディといった分野に限定されない。コメディであっても史実を取り込んだ作品は趣があるものとして評価される傾向にある。無論、より自由にキャラクターのビジュアルだけを愛でるといった創作も十二分に認められる。このあたりの二次創作における詳しい差異については後述する。

自由さに関していえば、敵側である深海棲艦に関しては適当とされる史実もないと現段階ではみられているため(*1)、さらに、より自由な創作が可能なことは深海棲艦のもつ大きな魅力のひとつだろう。(*1: 第二次大戦時に日本とドイツに敵対した国家がモデルだとされる意見もあるが、現在のところ決定的な確証はないとされている)

しかし自由度が高いことが必ずしも創作を有利にするわけではない。人間は「自由すぎても何をやっていいか判らなくなる」ものである。ある程度の「制限」があった方が創作において筆を走らせるきっかけになったりもする。そもそも、作品を形成するに当たって、それを他人と共有するということは何らかの制限を受けるということになる。もし本当に自由な創作があるとすれば、それは他人に理解される必要も、共有される必要も、評価される必要もない「自分のためだけ」の創作といえるだろう。


私は幼少の頃、恐竜の図鑑にクレヨンで「何か」の絵を描いた記憶があった。そのときの私は得意になって「何か」を描き、形作ったつもりであった。しかし何年か経ち、青年となった私が再び見た恐竜図鑑にクレヨンで描かれた「何か」は、そこに描かれてたものが何であるかさえ理解することができなかった。つまりそのときの私は幼少期(過去)の自分と、青年期(現在)の自分の間において、描かれた「何か」を共有することができなかったのである。

ここで注目したいのは、幼少期の私は確かに自分の描いた「何か」に満足感や充実感を持っていた、少なくともプラスの感情を抱いていたことは間違いないのである。自己のための創作という行為は、他人にとって理解や共有がなされないものであっても、充分なまでに自己の欲求を満たしうるものなのである。

以上のことから、自己のための「創作の価値」と、他者に向けて認められるための「創作の価値」は異なるものだと理解できる。もし、幼少期の私の「何か」が「他人に向けたもの」であったのならば、まず自己の満足感などとは別に、他者に認められるという段階を達成しなければならなかったのである。この観点でいえば、幼少期の私の創作は失敗だったといえる。
しかし、そのことによって幼少期の私の満足感や充足感は否定されるものではない。これらの評価軸はまったくの別ものだということだ。



さて、創作を他人に理解させるという枠組みについては物語の文法的な問題として放置し、ここでは艦これの二次的な創作において生じる枠組みを論じる。

艦これで言えば受け取る側は少なくとも第二次大戦時の軍艦の知識、もしくはゲーム内での軍艦(艦娘)の知識を前提として共有しているということが、より深い感動を生むために必要となっている。これは二次的な創作においても同様だといえる。しかしもっと基礎的なことを言えば、「艦娘」と呼ばれるキャラクターの存在が「実在した軍艦の擬人化である」という前提であろう。ここさえ押さえておけば知識については後からついてくるのが実態であっても問題はない。実際に艦これの核となっているのは、大戦時の知識よりも、艦娘が軍艦の擬人化であるという前提だろう。

ここで艦これの二次創作における 可 視 化 さ れ な い 大きな枠組みは、「艦娘は主に第二次大戦時に実在した軍艦がモデルとなった擬人化キャラクターである」というものになる。ここさえも逸脱したならば、おそらくは受け取る側も相当な柔軟性が求められることになるだろう。
「可視化されない」の部分を強調したが、キャラクターとしては絵として可視化された「外見」も共有される情報となるので、もし上記の枠組みを外したとしても、キャラクターの外見がある程度は保たれていれば、それは艦これの二次創作として認知されるだろう。

【可視化される枠組み】
 ・キャラクターの外見
 ・艦としての特徴的外見

【可視化されない枠組み】
 ・実在した軍艦の擬人化という前提
 ・大戦や軍艦に関する知識

これらは実際のところほぼ不可分な関係となっている。キャラクターの外見だけを取り出しても、軍艦の擬人化であるという前提だけを取り出しても、「艦これ」とは定義しにくい別の何かになってしまう可能性が高まる。実際にそうした片方の枠組みだけを別の文脈に組み込む二次創作は存在するが、他者からの評価は低くなることが少なくない。とりあえずそれに関して、ここでは置いておく。


物語のないゲームに何故キャラクターが成り立ったのか?

通常であれば二次創作において先行するキャラクターの生い立ちとも言うべき物語は、架空のキャラクターという存在を自立させるために必要不可欠である。ゆえに原作(一次創作)において物語が語られてこそ、それを前提として共有することで二次的な創作の展開が可能となるのである。

しかし、最初に記したように艦これのゲーム内においては、明確な物語というものが存在していない。だが艦これにおいて、艦娘たちにはキャラクターを成り立たせるための背景となる「何か」が既知として存在している。そうである、言うわずもがな、それが「史実的要素」にあることは、すぐに思い至るだろう。艦これのゲーム内において物語がなくとも、その背景となる史実にはすでに数多くの物語が存在しているのである。

この点に関して他のソーシャルゲームよりも単体で短期間で盛り上がった原因が理解できそうである。艦これの基礎となる物語はすでに存在していて、そこに後からゲームが出てきたのである。私たちはゲームが始まる以前から、特に戦史に熱心な者あでれば艦これの前提知識を共有していたのである。そして後続の者たちも、戦史について学ぶことで「艦これ」の物語を吸収・構築していく。
このような特徴は俗に「歴女」と呼ばれるような女性の歴史マニアなどにも見られる構造だろう。歴史が先に存在しており、そこに後から現代的なキャラクター付けがなされる例は、他にも古くから数多くの例が見られる。「三国無双」といった家庭向けゲームソフトもそういった属性のものだといえる。

艦これに関して言えば、史実が先にあり、それに沿ったキャラクター付けや台詞付けがなされている。艦これのファンはそういったところから逆算して史実にたどり着き、そこから自己の創作性へと変換するのである。
例として大井と北上という二人であれば、史実では雷巡の姉妹艦ということで、ゲーム内では仲の良い関係として設定付けがされ、台詞もそれに従ったものとなっている。そこからファンの間では「二人は仲が良い」という認識が生じ、それに準じた二次創作が作られることになる。

例として私の自作となるが、「おおいときたかみ」という艦これの二次創作について論じてみよう。


この作品は史実に沿って、北上の相方の大井が殉死(轟沈)するところから始まる。より正確に言えば大井はすでに殉死(轟沈)している。作中では始まりの時点ですでに、「大井と北上は雷巡の姉妹艦である」「ゆえに仲が良い」「大井は北上よりも先に殉死している」といった前提は(補足的な説明のみで)大きく省かれている。それらは語らずとも受け手側の間に共有されているためである。これは多くの二次創作に特徴的な文脈の「省略」である。「おおいときたかみ」の中では木曾についての物語も大きく省略されている。史実に従うのであれば木曾も後に殉死(轟沈)し、この後も北上の物語だけが続くのである。しかしそこはこの作中では描かれていない。にも関わらず、読者は史実と自身の想像の翼により、それを知ることができるのである。

先に述べたように、二次創作の場合には受け手側はすでに別のところで前提となる物語(文脈・知識)を得て共有しているのである。だからこそ、そこを省くいて、自分の着目したテーマのみを取り出し、シンプルに描き出すことが容易となるのである。
例えば「進撃の巨人」の二次創作であれば、主人公のエレン・イエーガーというキャラクターがどういう人物かということは、事前に原作の中で展開・説明され、読者の間で共有されている。よって通常であれば、二次創作の中でエレン・イエーガーというキャラクターをもう一度説明する必要はないのである。

「おおいときたかみ」は史実に従いながら、史実には記されていない「行間」を物語化したといっていい。実際に北上が木曾に励まされたといったことは(そもそも軍艦なのだから)ないだろうし、船員同士が励ましあったという史実があって、それを基にしたわけでもない。史実に従いながらも、行間の物語は自由なのである。
これは史実のみならず、創作においても原作の「空白」や「行間」となる部分に受けて側の想像が働くことからも理解できるだろう。

「暗闇のなかでは、我々の想像力は、明るい光におけるよりもたくましくはたらくのを常とする」 - カント
まさにこの言葉のとおりなのである。しかし真の深淵であるならば光のない闇に貧弱な想像力は飲み込まれてしまうだけだろう。だが、行間の空白というのは穴あきの数式のように、ところどころが光に照らされていて想像力に語りかける。それでいて一定の自由(闇となる部分)が認められているのだ。(1+○+○=8、というような制限された自由がある)。

昨今はこのような「行間の空白」を意図的に作り出し、それを受け手側に補完してもらうことで楽しんでもらおうという作品も存在するようである。しかし、受けて側はこういった意図的な「行間の空白」を今のところ、あまり好ましく思っていないようである。本来であれば、創作において省略や不足によって語りきれない行間というのは数限りなく存在するのである。それは意図しなくても存在するのが常なのだ。ゆえに意図的に行間の空白を作り出そうとすると、作品として説明不足になってしまうことが少なくない。そうなると行間を読むよりも、行間が空き過ぎて本来の物語も捕捉できなくなってしまうのである。空白の部分が大きいほど想像の余地は大きいが、現在のところ二次的な創作者の多数は、そこまで大きな行間を望んではいないようである。

【2014/06/07 追記① ここから】

史実に従った艦これ二次創作について「少し食傷気味である」という指摘を得た。その主張によれば、艦これ内において「艦娘」という存在が軍艦としての責務を果たしたのは「過去のこと」であって、艦娘は生まれ変わった「未来の存在」であり、故に「轟沈する」といった過去のシナリオを再び繰り返す必要はないというのだ。

この指摘は確かにその通りで、艦娘たちの台詞は「大戦があった」という事実が「過去の出来事」として客観的に語られている。よって本来であれば、描かれるべきは大戦を過去のものとして、(時間軸としては少なくとも大戦時よりも)未来に生まれ変わった艦娘の存在なのである。

この点を意識することで、大戦時を「過去」、艦娘の存在を「未来」として、時間軸の関係をより鮮明に描くことができるようになるだろう。そして史実に沿うだけでなく、より新しい物語を創造することが可能となる。

さらに別の解釈として「艦娘が少女達の妄想でしかない」という捉え方も不可能ではないだろうという指摘もあった。さらにその場合に彼女たちが何故、戦闘能力を秘めているのかといったところも物語としては面白い展開にできそうである。

【2014/06/07 追記① ここまで】



艦これのブラックボックス

さて、艦娘については史実がキャラクターの背景となっていることが示されたが、冒頭で記したように敵側の深海棲艦については謎が多い。この部分については史実の背景もないのでほぼ完全に受け手側の想像に任されているといっていいだろう。それゆえに深海棲艦については、それぞれ独自の解釈が生じやすい。これは前述してきたような史実を基にした共有知識や共通概念といった前提・枠組みが受け手側に存在していないことを示している。

ゆえに深海棲艦がどのような存在なのかについては受け手側の自由度がかなり高いのである。
再び自作となるが、深海棲艦を基にした「空母ヲ級の日常」という作品を参考にしてみよう。


この作品の中では深海棲艦たちが、海の底で現代の我々のように生活しているという想定で描いたものである。この作品は前述してきた「枠組み」のうち、可視化されたキャラクターの外見しか共有していない。しかし元々、深海棲艦には可視化されていない方の枠組み(史実など)は存在していないのであるから、自然とそうならざるをえない。そして誰もこの解釈と表現を「否定」しきれないのだ。

よく二次創作が「原作を犯している」と揶揄されるのは、原作が唯一神的な存在として最上位に据えられているからである。そのときに、原作にそぐわない表現(原作と違うキャラクター付けなど)が出てくると、それを「否定」する流れが生じるわけである。二次創作は、一次創作について二次的なものであって、一次創作に従わねばならない。という前提が無意識にも生じているのである。
では、その場合に私の深海棲艦の二次創作は完全に否定できるのだろうか? おそらく、公式が原作として深海棲艦の物語を示さない限り、否定はしきれないということになるだろう。(逆にそれが示されれば解釈の自由は原作が最上位だという認識において失われる)

前の段で述べたように、二次創作をする側にとって高すぎる自由度はときに障害となる。それは二次創作の受け手側にとっても同じことである。どのように読んでいいのかの自由度が高すぎるのだ。従うべき原作がなく、共有すべき前提もない。完全に自分の好みの問題なのである。ゆえに深海棲艦については、「轟沈した艦娘の怨念」だと解釈した二次創作も多数存在する。その他にも様々な解釈があるだろう。深海棲艦については、ほぼ公式の手を離れて二次創作側に託されているといっていい。公式の見解が無いここで重要とされるのは、受け手側の共有認識である。つまりどの(二次創作の)設定がより受け入れやすい、多数に共有できるものであるか、という点である。

原作を最上位とするのが未だ自然とされる現代において、史実からもメーカー(原作)側からも何らかの決定が示されない以上は、ユーザーが自分達で決めなくてはならない。しかしやはり二次創作では共通した前提や知識の存在が大事なのである。つまりこれも前段で示したような「空き過ぎた行間の空白」のひとつといえる。想像の働く余地が大きすぎて、的を絞れない、あるいはそれを語るためのコストが高すぎるのである。

何も決まっていないということは自分で最初からそれを理屈付けて物語として説明しなければならないのである。そうして読者に印象付けた上ではじめて物語をはじめることができる。しかしこれまで多くの二次創作者が歩んだ道は、「適度な行間」を埋める道なのである。空き過ぎた行間を埋めるには時間や技術的なコストが高くなる。主にアマチュアが大半を占める二次創作において、そこまで本格的なコストを支払おうという存在は稀だろう。プロであれば、それは仕事にするだろうから、ファン活動としてそれを為すのは、やはり稀だろう。

深海棲艦と同時に、そもそも艦これの世界設定・艦娘の存在位置なども謎に包まれている。
艦娘はどのようにして生まれたのか? そこもひとつ謎である。過去の史実から、大戦の記憶を持った存在として描かれる艦娘。大戦と関わりなく、現代にだけ存在している艦娘。そもそも艦娘は死ぬのか? 歳を取るのか? 偽装を外したらどうなるのか? (一部公式から見解も出ているが)。そういった解釈も作品の中において自由度の高いものとなっている。ここでもひとつの尺度とされるのは、やはり受け手の多くがそれを享受できるかといった支持の多さだろう。(多数派に寄ることで安心を得られる。少数派は主体性がしっかりしていない限り不安を抱きやすい)。

これまた自作になるが、この作品では艦娘は女子学生のアルバイトとして描かれている。海に浮く機能や砲撃や魚雷については「装備(艤装)」によって可能となるという解釈をしている。女子学生も大戦時の記憶などは持っていない。一般的な島民として描かれている。この点についても作中の設定について明確に否定はしづらいだろう。やはり公式から固定された前提となる知識が示されていないためだと考える。


これらブラックボックスの総称として高い評価を得たのが以下の二次創作作品だろう。
「艦娘とは何か?」「深海棲艦は何か?」という冒頭をシリアスに示したものとなっている。(ただしエンディングはまだない)


【2014/06/07 追記② ここから】

艦これのブラックボックスに関しては、「提督」という存在についても言及を怠ってはいけないところだろう。通常であれば艦これにおける「提督」とは「プレイヤー」のことを指している。しかし、物語として語るときにそれが意味するところは「メタ(*1)」的な要素も含めるということだ。(*1: メタ=「上位」の意味。フィクション創作においては、空想の上位に実在する「現実」を意味する。)

つまり、これまで二次創作における「提督」の多くは(その姿がどのようなものであれ)、「プレイヤー」として「現実にモニターの向こうにいる存在」という位置づけで描かれているものが多く見受けられた。これは無意識にも「提督と艦娘との関係」が「ゲーム」によって生じていることを意味するものになっている。しかし、完全なフィクションとして物語を演出するのであれば、「提督と艦娘の関係」は創作の中だけで完結しなければならない。この場合のセオリーとして、まずフィクションにおいてメタ的な演出は避けられることが適当とされる。

現段階の艦これでは、物語としての「提督と艦娘の関係」もブラックボックス(謎)のままなのである。ログインして着任しても通常のゲームのようにストーリーによる導入は無く、すぐにゲームが始まる。しかし上記の二次創作においては、そういった導入部分がきちんと創作の中において、メタ的な要素を含めずに「海軍」「陸軍」といった関係によって描写がされていた。そのために、よりシリアスな展開を助けるものとなったのだろう。

メタ的な要素を排除し、フィクションとして独立独歩しながら、ゲーム内の要素を踏襲し、その延長上として描かれた本作が多くの支持を得て高い評価を受けたのは当然といえるだろう。

【2014/06/07 追記② ここまで】


二次創作をする”読者はどこにいるのか”

読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)
(2009/10/09)
石原 千秋

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二次創作をするときに、私たちはまず「読者」である。一次創作・原作から何かを受ける立場にある。それは小説・漫画・映画・音楽・アニメ・ゲーム・etc...どれを取っても基本的に「受け手」側であることは変わりないものだといえる。

本を手にしたときに私たちはまず、それがどういう作品かを理解しようとする。
さらに読み込んで作者の意図を探ろうとする。
あるいは作者の存在そのものを作品の中に見つけ出そうとする。
物語がどのように組まれているのか構造を分解して調べる。
それがどのような文脈で書かれたのか関連を探る。
時代的な影響や政治的な背景を考える。
作品について読者が自由な解釈を述べる。

このように「読み」には様々なものがある。
特に古来より原作の中には作者の意図が込められており、読者はそれを読み取るのが常であるという教育が現代国語では為されてきた。そこから作者自身を感じ取ろうという意識も生じてきた。しかし、ロラン・バルトが「作者の死」を論じると、「作品をどのように解釈するかは読者の自由」だという考えが生まれる。それまで作品には作者の明確な意図があり、読者はそれを読み取るのが至上とされていた価値が崩れる。昨今では作者の存在が希薄であることも少なくない。作者による「あとがき」や「解説」の中にある決まりきった見解を不要と考える読者もいるだろう。それよりも自分で作品の中に見出した神秘性を大切にしたりするのだ。

文学は大昔にこの域を確立させてきた。しかし現代でも先述したように「原作至上主義」は根強い。確かに一次創作を尊重し崇拝することは尊い行為でもあるだろう。だが、本来ならば私たちは自分の解釈で作品を享受する自由があるのだ。誰かが「こう解釈しろ」と言ったからとて、必ずしもそれに縛られる必要はない。(しかし他人の共感を得たいのであれば、それは周囲のことを観察しなければならない)。ひとつの作品を見ても、人によって感想が異なる場合がある。それは「面白い/面白くない」「好き・嫌い」といった大雑把なレベルから、さらに詳細な部分で見解が食い違うこともある。

私も自身で創作を発表するにあたり、特に上述した「おおいときたかみ」においては、多くの感想を見る機会に恵まれた。その中で学ばされたのは、作者の意図は必ずではないということである。少なくとも「おおいときたかみ」において私の意図が大きく外れたとは言わない。むしろほぼ狙い通りだったと言っていい。それでも「特定のシーンでグッとくる」という感想が、私のまったく意図してない箇所についても書かれていたことがあった。(私としてはそのシーンは単なる場面の繋ぎでしかなかった)。別にそれを間違いだなどと言うつもりはない。その人がそう感じたのなら、それがその人の中の真実でよいのである。

私が前段も含めて(それが自身の作品であっても)作品について論じ強制することで、貴方の中に「それは読者の自由だろう」と、何らかの不快感や不満が胸に湧いたのであれば、それはまさに貴方自身の中に「作品を自由に評する」という自由意思が存在することに他ならない。無意識にでもその自由を持っていて、それを侵されたからこそ不当に感じたのだ。私たちは読者として比較的に自由な解釈をしている。私が本稿で二次創作と批評の自由を絡めて論じたのは、我々読者は作品を自由に批評したり、構造分析するという段階から、さらに、自分で創るという域に達してきているのではないかと感じたからだ。実のところ、本稿で私が一番言いたいのは、そこだったりする。


批評としての二次創作

本歌取りなど、昔から自分の解釈を取り入れる二次的な創作方法は存在していたといっていい。現代の漫画やアニメにおける二次創作もひとつそういった時代の大きな創作史として残るようなものかもしれない。しかし、私たちは、ひとつの作品を見たときにそれぞれ独自の解釈をする。もし他人と同じ見解になったというのなら、それはたまたまでしかなかったのかもしれない。そして、ときに独自の解釈は原作さえも否定する。

原作で死んだキャラクターを生きたものとして描く二次創作があってもいいだろう。
西部映画「シェーン」ではラストシーンで決闘を終えた主人公が馬に乗って去るシーンがある。このとき離れていくシェーンの背中に向かって「シェーン!戻ってきてよ!」と呼びかける子供がいる。しかし、主人公は振り返らずにそのまま行ってしまう。
さらに「インセプション」という映画では幻想の世界(現実の世界と区別がつかない)から抜け出すために奮闘した主人公が、幻想と現実を見極める独楽(こま)を回してラストシーンが終わる。その独楽が倒れれば主人公は現実に戻ってきたと判るのだ。しかし、独楽が倒れるシーンが映る前にスタッフロールが始まり、映画は終わってしまう。

これらのラストシーン。「シェーン」ならば主人公は敵の銃弾を受けて実は相撃ちで死んでいたと取ることもできる。だが、生きていて単に振り返らずに去っていっただけとも取れる。「インセプション」ならば、主人公は無事に幻想世界から脱出できたと思うか、それとも実はやはりまだ幻想世界に囚われていた、と解釈するか。それは見る者の自由なのである。ただ、多くの人間はハッピーエンドを望む。シェーンは生きていてほしいし、インセプションの主人公は現実の世界に戻ってきたのだと思いたい。あるいは逆に「シェーンは無情にも死んでしまったのだ」というハードボイルドの哀愁を噛締めるか、インセプションは永遠に幻想世界を彷徨うホラー映画だったのだ、と恐怖するか。

こうしたときに私たちは、(物語は終わりを迎えているのだが)「行間の空白」を埋めようと様々な議論をする。作品を分解して構造から作者の意図を探し出そうとしたりする。そうして自らの想像力を働かせて、ときにそれを形にしてしまう。あるときは小説に、あるときはマンガやイラストに。それは二次創作という形を伴った一人ひとりの批評とも言うべきものなのではないだろうか。


東方と初音ミクの枠組み

最後にオマケとして、東方と初音ミクの二次創作についても論じておきたい。長くはならないだろう。前述した「枠組み」について当てはめてみようという試みだ。

まず東方はキャラクターのビジュアルはZUN氏が用意したもので共有されている。ゲーム自体はシューティングだが、神々がモデルなので(艦これの史実と同じように、というか艦これの方が後なんだけど)ゲーム外の文脈においてキャラクターの物語と背景が個別に備わっていると言っていい。

比較的に自由度が高いという初音ミクだが、キャラクターとしての枠組みの完成度が高い。ビジュアルが決定しているほか、比較的に自由だとされている可視化されていない枠組みも、「機械」「歌姫」という枠組みは大半の二次創作に共有されている。さらには「ソフトウェアとして家に届けられる」といった概念も枠組みとして共有化されているところがある。初音ミクの場合は他にもユーザー間のつながりから、「ネギを持っている」「リンレンよりもお姉さん」といった枠組みも共有されているだろう。しかし史実的な背景などはないので、明確な物語の文脈は持っていない。

こうして見ると、やはり何らかの枠組みがある程度、備わっていたほうが二次創作は「行間の空白」を埋めやすくなる。完全に自由で広大な空間を埋めるには二次的な創作のひとつひとつは弱い印象を受ける。それだけのスペースを埋められる作品の創出はまれである。


参考資料

http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/cpr/arts/contents/repre/no2/07Hb-5ishikawa.pdf
http://nagase-m.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3203.html
http://togetter.com/li/671757
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