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フィクションにおける「裏切り」とは何か

我々は創作された物語を通して感動をしたり、驚きを得たりする。しかし、それは「騙されている」と知ってのことだ。フィクションとは意図的に作られたものであって、下手をすると我々はその結末を知っている。「映画が2時間後に終わることを知っている」「主人公が勝つと知っている」「ヒロインが幸せになると知っている」。
結末や成り行きを知っているのに見て驚いたり、感動したりする。不思議なことだ。あるいは「幼稚」といえるかもしれない。

フィクションを受け付けない人にとって、「それが他人の空想(あるいは妄想)の産物でしかない」というところが享受できないひとつの理由だろう。人は自分で空想や妄想をする限りは何でも自由に行えるのだ。頭の中で考えるだけなら殺人も強盗もできるし、法律で取り締まられることもない。誰とでも両想いになれるし、結婚だってできる。「そんな状態でスリルやサスペンスを強調されても何も面白くない」というのがフィクションを受け付けない人たちにはあるのだろう。

確かにその通りなのだ。否定するところなどひとつもない。明らかにフィクションが苦手な人たちの言う通り。ではなぜフィクション好きはあえて騙されていくのか。そしてフィクションによって、「もともと騙されている」のに、なぜそこに「裏切り」を感じるのか。「期待していたほど面白くなかった」「結末が予期していたものと違った」こういった声に答えがあるだろう。本稿では、それを言語化することを試みる。



「期待の地平」

読者とはおかしなもので、「ネタバレ」などを気にするくせに「物語はこうなる」という結末や顛末を頭の中に思い描いて読むところがある。

あなたは本を読み始める。「なるほど、こういう主人公か」「こういう所に住んでいるのか」「友達はこんなやつなんだな」と読み進めるうちに情報が増えてくる。すると突然「じゃあ、次はきっとこうなるに違いない!」と、不意にそう決めつけるだろう。これは日常の会話の中にも潜んでいる。会話の途中に「あ、ひょっとして、xxxさんの弟さんじゃない!?」といった具合だ。

つまるところ「推測」などを働かせるわけだが、これが何故働いてしまうのかといえば、生き物の習性だからしょうがない。サバンナのシマウマだって、飢えたライオンの前に歩いていけば自分が危機的な状況に陥ることは本能的に悟るだろう。これも「推測」と言っていい。対話中に相手がムッとした表情を見せたのなら、言葉にはしていなくても「不快にさせてしまったかな」「失言があったかな」と推測する。

生き物は与えられた情報から「先を読む」ということを本能的にやってしまうものなのだ。工事中で先のない道路を歩き続けたらどうなるか、容易に想像がつく。このように読者というものは本能的に、読んだ情報から少なからず先を考えてしまう。これをまったくしないでいられるという人はおそらくいないだろう。

となると、私たちは必然と読み進めるうちに予測をするようになる。あるいは期待を込めるようになる。とにかく今ある情報から未来(本ならページの先)を思い浮かべるのだ。そしてページをめくってドキドキハラハラしたり、ときに驚きを得たり、期待通りになってホッとしたりする。

ある作家はこれを「期待の地平」と呼んだ。
読者は本を読み進めるうちに、あるいは読む前から「一定の期待」をするのだ。それが期待の地平というわけである。とはいっても期待や予想には個人差がある。なので、ここでいう期待の地平とはあくまでも広く、一般大衆的な期待の地平、あるいは平均的な期待、と言い換えてもいいかもしれない。とにかく、それは存在するのだ。



「予想を裏切り、期待を裏切らない」

別の作家の言葉は的を射ている。先述したように読者は内容を読み進めるうちに得られた情報からおのずと「推測」し、「予想」や「期待」といったものを抱くようになる。

言葉遊びのようになるが、「予想」と「期待」に一体なんの違いがあるのか? 鋭い人ならばすでにこの言葉を聞いただけで全てを悟るだろう。読者は得られた情報から物語の未来を「予想」する。しかし「期待」とは必ずしも予想に沿うものではない。

例を出してみよう。

手品師が手品をする。「コインを消します」と観客に告げた次の瞬間、なんと手品師の方がパッと僅かな煙をあげて消えてしまう。そしてコインだけがその場にチャリーンと残る。観客はあっと驚くことだろう。

このときに「コインを消すと言ったのに、お前が消えてどうする!!」と憤慨する観客はいないだろう。何故か? ここで観客が「期待」しているのは「驚きを得ること」なのだ。だから「コインが消える」という「予想」への裏切りはどうでもいいし、手品師が噓をついたことに目くじらを立てる人などいないだろう。

このように「期待」とは、「予想」よりも広く根底にあるもので、例え予想を裏切っても、期待を裏切らないという構造は可能なのである。だから「主人公は勝つ」と知っていても、その予想を裏切って敗北し、最後に「主人公が勝つ」という期待に答えることでエンターテイメントが成立するのである。
逆に「期待」裏切って、「予想」を裏切らなかった場合にはどうなるか。それを次に考えてみよう。



「広告による齟齬」

我々は得られた情報から先を推測する。それは何も書籍の内容だけではない。あるときは事前に広告や人の噂から情報を得たりする。

最近、多いのは「宣伝ではxxxがテーマだと言っていたのに、見たらまったく違うものだった」というもの。いわゆるこの状態が「期待を裏切られた」ものだ。「予想」を裏切る場合と違って、「期待」の裏切りというのはエンターテイメントになりにくい。これに理屈はつけづらい。理屈の問題よりも感情的なものなのだ。

例えば恋人に職場に呼び出されて「仕事の手伝いかと思ったらプレゼントを貰った」というものであれば、嬉しいサプライズになるだろう。しかし逆に「プレゼントを貰えると思っていたら、仕事の手伝いだった」というのではガッカリだろう。

広告によるこういった期待への裏切りが容易に生じてしまうのは何故だろうか? それはいわゆる作品を「売る」のが目的の営業部にエンターテイメント性など必要ないからだろう。商業的な売り上げが目的なのであれば、短期的に顧客を裏切っても「売り上げが出れば良い」のであって、観客が裏切りを感じたかどうかなど、どうでもいいのだ。そこは「売り上げ」という目的に入ってこない。むしろ騙されて金を出す人間がいれば儲けもの、といった具合だろう。



「やらせ、演出と捏造の境界」

いわゆるテレビなどのマスメディアも「フィクション」を行う。言ってしまえば例え事実性を重視する報道であっても、何者かの視点を介するということは、偏りが出るということなのだ。だからひとつの事件を取り扱っても情報に差があったり、伝え方が異なったりする。それは伝える側が対象を好きか嫌いかといったことから、政治的な理由まで様々な原因が存在する。

さて、いわゆる「やらせ」と呼ばれるものには2種類あり、「再現」と「捏造」に分かれる。

さらに「再現」は、「事実再現」と「悪質再現」があるとされる。
再現とは、「あったことを再現する行為」である。つまり「こういうことがありました」という「再現映像」だ。これは映像はフィクション(演技)だが、内容は事実だとされる。
悪質再現は、これを誇張したり、事実を歪めたりする再現である。軽傷だったのに、あたかも重症であるかのように演技させたりした再現映像である。

続いて「捏造」は、再現のように元々の事実さえない。完全な偽りである。
要するに「ノンフィクション」「ドキュメンタリー」「ルポルタージュ」という皮を被った「フィクション」である。

ここで重要なのは、同様の現象は「再現」でも起こることだ。それが起こる要素は「事前に再現だと知らせない」ことである。
こうなると視聴者はやはり「本物の映像だと思って見ていたのに、演技だったのか」ということで期待を裏切られたとなるのである。

重要なのは、「フィクションはフィクションだ」と伝えておくことである。
明らかにフィクションだとわかるもの、フィクションが前提になっているのも、漫画やアニメや映画はそういった認識が強いだろう。だから逆に事実を元にした作品は「これは実際にあった物語である」ということを強調する。



ノンフィクションへの裏切り

期待の地平に話を戻せば、視聴者は「事実だから」と「期待」して、ハラハラドキドキしながら映像を見ていたわけである。
それが「捏造である」と、作り話(フィクション)であったとわかれば、これは「期待が裏切られた」ことになるので負の感情が生じるのである。

これは「予想の裏切り」とは異なる。「これはフィクションだな」と期待してドキュメンタリーを見る視聴者は稀だろう。
製作者側が「驚きを与える演出だった」と言っても、「期待を裏切る」ことに寛容になれる者は少ない。

さらに事実報道だと偽った「虚偽報道」であれば、そこに倫理観が働き、反発は尚いっそう強くなり、モラルパニックを引き起こす。
ノンフィクション→フィクションの虚偽でもそうだが、このモラルパニックはフィクション→ノンフィクションでも起こる。

近年では「闇の子供たち」という小説が、「事実であるようにフィクションを書いた」ということで非難を浴びた。この作品は映画化までされているが、レビューなどには批判的な声が並んでいる。

さらに最近では「美味しんぼ」が福島編として、事実性の低い内容を、あたかも「事実である」ように描いたことが問題視された。

ここには「期待の地平」以外にも、フィクションとドキュメントの在り方が問題として浮き出ている。
フィクションのキャラクター達は存在していないので、そのキャラクター達が何を言おうと抗議のしようがないし、責任も問えない。言うなれば作者や編集部に抗議できる程度である。
それに対して描かれた「福島」という現実は、作品から受ける影響を避けられないのである。

このアンフェアな作品のあり方は如何なものか。こういった問題が、フィクション→ノンフィクションの作品には常に付きまとう。そもそもドキュメントであれば、ドキュメンタリーとして描けば良いのであって、フィクションの中にドキュメントを混ぜるのは上手くない。

「上手い嘘とは、少しだけ本当のことを混ぜるのだ」という言葉があるように、フィクションの中にも事実を織り交ぜることは多々ある。
それはときに「リアリティ」と呼ばれて、作品の形成に役立つ。しかし、そのことと上記のドキュメントを織り交ぜる方法を混同してはいけない。これはまったく別のことだ。



「情報と想像は分ける」

ある絵本作家は「情報を求めているとき、読者は論理的思考を用いる。そのときにフィクションは求められない。必要とされるのは情報だ」「娯楽を求めているとき、読者は想像的思考を用いる。そのときにノンフィクションは求められない。必要とされるのは想像力だ」と、このように述べている。つまりフィクションとノンフィクションは混ぜる必要がないということだ。

私たちがニュース番組を見ているときに求めているのは「情報」である。ニュース番組の中に「想像」や「演出」は求められていない。またキャスターが感情を込めてニュースを読み上げることもない。感情的なドラマは必要とされていないのだ。ただ純粋に情報だけが求められる。
ノンフィクションにおいて編集は過不足なく行われなければならない。過剰な演出があってもいけないし、不足によってインタビューなど発言の意図が変わってしまってもいけないのだ。より事実に近い情報が求められる。

対して映画や小説を見るときは感情的な抑揚が求められる。つまりドラマが求められるのだ。逆にドラマのない淡々とした情報の羅列はエンターテイメントとしては物足りない。
フィクションにおいては過剰な演出も自由な想像も許される。むしろそれがなくてはいけないのだ。そして「省略」もひとつの技法として認められる。もちろん過不足なく行われることが望ましい。
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