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【ニコ生】表現の不自由・ゲスト土屋正忠議員【第二回】

2014年9月11日、表現規制に反対する廣田恵介氏が、土屋正忠議員をゲストに招いて討論会を開いた。ゲストの土屋議員は先の9月1日にもテレビ番組「TVタックル」に表現規制派として出演し、江川達也や岡田斗司夫らと討論し物議をかもしている(参照)。その後すぐの登場ということもあり、このニコニコ生放送への注目度はかなり高かったといえる。今回は主催の廣田氏とゲストの土屋議員の他に、一般参加として3人の論客が登場している。


主 催: 廣田 恵介
ゲスト: 土屋 正忠
一 般: 呉 哲心、タナカ、サガミヤ

放送時間は延長を含めて90分、TVタックルよりも長い時間の放送である。特に土屋議員は前回のTVタックルでは語りきれなかった部分が論じられ、より明確な論点が見えたことは有意義であった。ただ客観的に見れば土屋議員が、一般参加の三人に対して説明的な喋りをするところが多くなっしまい、全体的に内容は薄くなってしまったように感じた。一般参加の三人は緊張も見られ、言い間違いなどから誤解が生じ、討論に支障が出るところもあった。司会の不在も響いて進行に不満を持つコメントも散見された。ただ、それに関しては今後の課題ということで活かしていければと思う。


討論内容

まず、土屋議員は冒頭に約20年前に欧州で起きた児童ポルノ絡みの事件でマフィアが発言したとされる「児童ポルノを買う奴がいるから供給しているんだ」という発言を取り上げて、児童ポルノの製造に関わる問題として、これを人権救済の立場から規制していこうという立法経緯を述べる。次に自民党らが出した児童ポルノ改正案について語り、創作物も調査・規制に含める案を出していたが、それが却下されたことを説明している。

次に廣田氏がTVタックルの件ついて触れ、土屋議員は「TVタックルの番組内では”美少女アニメ”の是非を問うような内容になっていたが、自分としてはいわゆる一般的なマンガ・アニメ・CGなどを規制するつもりは無くて、一部の過激なもの(児童ポルノアニメ)について規制の対象にしたい、ということを言いたかった」と番組を振り返った。実際にこれはTVタックルの番組内でも発言しようとしたが、他の発言者に遮られてしまっている箇所が放送されており、後日、自身のブログにも同様の旨を記している。

次に呉氏が「児童ポルノ」と「児童ポルノアニメ」の違いがハッキリとしないということについて言及するが、呉氏が「条文」と言ってしまったところで、土屋議員が「いや、あれは改正案で却下されたんだから、条文にはない。創作物が児童ポルノの条文で規制されているという事実はない」という児童ポルノ改正案に関する説明になって終わってしまった。あとの反応を見るに呉氏もただ言い間違えただけなのだろうが、そのまま土屋議員の説明が続いてしまい、最初の質問は廣田氏によって拾われている。ここで「児童ポルノ」「児童性虐待記録物」という言葉の定義についてここで論じられるが、土屋議員の話に流されてしまう。



次に、サガミヤが「R-18のものを規制するのか」という旨を質問しているが、土屋議員はこれに「18歳未満ということに関わりなく、社会的に影響のある物を規制していく」という方向性を示している。ここで実例として成人指定のコミックが取り出される。そして土屋議員は、2006年に摘発された「女児愛好団」、2014年に起きた「盲導犬刺傷事件」「全盲女子負傷事件」を取り上げて、そういった事件のような残虐性の高い内容を含む創作物が「表現の自由のもとに守られるべきなのか」と指摘している。

また、そういった創作物が数多く出回ることで、それを何度も読むことによって、利用者の中で、残虐な犯罪に対するハードルが下がり、実際の犯行に及びやすくする可能性があるのではないか、と主張している。そのうえで、そういった犯行を助長する恐れがある創作物を、規制する必要がありはしないかと問う。さらに続けて2011年「熊本3歳女児殺害事件」を取り上げて、犯人の自宅から児童を虐待する内容のマンガなどが発見されたという当時の捜査官のコメントを取り上げている。これについて反対派が「ケースとして少ない」と指摘するが、土屋議員は2005年に起きた「栃木小1女児殺害事件」も取り上げて、犯人の自宅のパソコンから児童ポルノに類するものが発見されたことを挙げて「少ないということはない」と反論する。反対派は「発見されたものがマンガ・アニメ・CGなどか、実在の映像かは判らない」と指摘し、土屋議員も発見されたというものについては「実写か、創作物かはまだわからない」と認めている。



次に、タナカ氏が円を用いた図を使って、「過激な表現のマンガを読んでいるからといって、その読者の全員が犯罪を犯すわけではなく、ごく一部の人間が犯行を犯すにすぎない」という点と、「このごく一部のために全体を規制して果たしてそれで犯罪抑止の効果が実際にあると証明できるのか」といった点を土屋議員に投げかける。これに対し土屋議員は「はっきりとした効果があるということはいえないが規制する必要がある」ということを、刑法第175条「わいせつ罪」を例に「社会法益」と「個人法益」の点から論じる。

土屋議員はTVタックルでも取り上げられたアメリカの規制基準を例に、「予防的処置」として規制の必要性を問うているが、その科学的根拠などは「犯罪心理学などでそういうものがあるのだろう」という程度に留まり、しっかりとした論拠は出されていない。続けて「犯罪を犯さない人がいる(大半だ)からといって、規制しなくていいということではない」と主張している。ここは反対派と真っ向から対立しており、「一部のために規制すべきなのか(するのならば根拠はあるのか)」という主張と「全体のために規制するべき(根拠ははっきりしておらずとも)」というものになっている。

その後、タナカ氏が改正法案にあった「児童ポルノと犯罪の影響の調査」に関する項目を取り上げて、「調査してほしかった」という意向を告げる。これに呉氏も同調し「調査してもらって関連があるというのなら、その根拠を示してほしかった」といった旨を述べている。サガミヤ氏が「何故、調査は行われなかった」と土屋議員に問うが、議員は「創作物を含めた改正法案が却下されたことにより、調査研究も行う必要性がなくなったため」と答えた。ただ廣田たちが「土屋先生は因果関係があるとお考えですか?」と質問すると、議員は「それについては私も調査した方がいいと思う」と答えた。



ここで廣田氏がコメントを取り上げて再び「児童ポルノ」という呼び方と、「児童性虐待記録物」という呼称の違いについて言及し、土屋議員も「何故ポルノと呼んではいけないのか?」と改めて質問する。これに廣田氏は「ポルノというのは被写体となる人間が、自らの意志で積極的に出演することで製作されるものであり、例えばAVのようなもので、児童性虐待記録物(いわゆる児童ポルノ)は子供が自らすすんで被写体(ポルノ出演者)になっているわけではない」という違いを説明する。土屋議員はこれについて「現時点では”児童ポルノ禁止法”だから」ということで、児童ポルノという用語を使って論じていたと釈明する。

その後、タナカ氏が改めて「マンガ・アニメ・CGなどを規制すれば、犯罪が減るという、因果関係があるという明確な調査結果はあるのか」ということを質問する。続いて廣田がデンマークの調査研究結果を挙げて「創作物と犯罪に関連性はない」という2010年の見解を紹介する。これに土屋は2008年ブラジル議会の内容を挙げて、「日本は『児童の性的な姿態や虐待を描いたアニメや漫画を規制していない』と名指しで批判された」と議事録を読み上げている。

ここで土屋議員は戦場に赴く兵隊について、人を殺すための訓練を取り上げ、それが心理的な障害を取り除くためのものだと言うことを語る。(おそらくここから、創作物が犯罪を犯すための心理的なハードルを下げる作用があるということに繋げたかったのだろうが)ここでサガミヤ氏が割って入り、「結局、マンガ・アニメ・CGが犯罪に関係しているというデータはないのか。確証なしで法規制を作ることはできないのではないか」ということを問い直す。廣田氏もこれに続いて、イギリスの例を出し、「英国はコミック規制が厳しいのに、凶悪な犯罪も起きている」ということを指摘する。

これに対して土屋議員は「”規制しても犯罪が起きている”というのであれば、”規制しなかったら”どうなっていたのか? ひょっとしたら、もっと増えていたかもしれない」と「if(もしも話)」を展開する。続けて「手元にデータはないが、性犯罪は日本でも相当起きている」と発言し、廣田が「日本での児童に対する性犯罪のデータ」として、先ほど紹介したイギリスよりもかなり少ない数の調査報告を述べる。廣田は「家庭でこういうことが多く起きている」と述べるが、土屋はこれに「それは社会的防衛と異なる。聖書の時代からの話だ」と反論。



ここで改めてサガミヤが「犯罪にマンガ・アニメ・CGとは関係ないですよね?」と問いつめると、土屋は「(廣田が指摘した家庭内の性暴力に関して今は)マンガ・アニメ・CGは関係ない。家庭内の問題だ」と主語を省いた発言をする。サガミヤはこれを「(犯罪に)創作物は関係ないですよね」と強調する。土屋は議論を廣田の話から、サガミヤの話に切り替えて「残虐な創作物が出回っていることが、社会的に”可(許されること)”なのか?」と問う。呉が続いて「創作物を規制するだけの根拠はあるのか」ということを改めて問う。

土屋議員は刑法175条わいせつ罪を取り上げて、「わいせつなものが公然としていてよいという社会はない」ということを主張する。「チャタレー事件」の判例を取り上げ、社会規範・時代通念に照らし合わせて規制されるべき表現が存在することを強調した。ここで土屋は「創作物と犯罪の因果関係があるかどうかは個人法益の話で、犯罪に繋がる恐れがある創作物を規制するのは社会的な法益だ」としている。廣田やサガミヤは「議員が論拠としているのは、児童の人権を守るという”個人法益”なのか、社会規範を守るための”社会法益”なのか、どちらなのか」と問いただしている。

土屋議員はこれに「自分は最初から社会的法益の観点で話している」と述べる。その後、討論が激しくなるも、この主張は変わらない。ここからしばらく”わいせつ”の歴史的な概念について論じられる。土屋議員は文章作品を取り上げて「小説は社会的な影響が少ない」といった論旨を展開し、過激な創作物を社会的に規制することで、やがてそれが個人法益を守ることにも繋がると主張している。

土屋は社会通念についてさらに論を展開するが、そこでサガミヤが「それは裁判官が決めることなのか」と質問し、呉が「裁判官の判決が社会通念をリードする役割がある」と添えると、土屋も「そういったことを積み上げていって出来上がるものが(その時代の)社会通念だ」と合意すると共に、サガミヤの意見を「極端に飛躍していると」と指摘する。



次に土屋議員は文章作品と映像作品の違いについて論じ、文章だけのものよりも映像の方が影響力があるということを指摘している。そのうえで土屋議員は「自分が規制した方がいいというのは、(R-18であっても)広く一般に出回っている創作物ではなく、集団で暴行するとか、そういった過度に過激な表現が含まれたものについて規制した方がよいのではないか…と、そういうことだ」と改めて主張する。ここでサガミヤは「では具体的にどういった規制をするのか」といった質問を投げかける。

土屋議員は児ポ法などを例に出して「文言として決めることは難しいことだ」と慎重な姿勢を見せるが、再三に渡り「個人的な意見でよいので聞きたい」と求められて「決めるとなれば…」と慎重に答える。土屋「まずは範囲を限定して、18歳未満(の描写)が対象なら、それに絞って、それをさらに集団で暴行するものとか、そういうのを文言にする」と答える。さらに都道府県によって定められている「青少年健全育成条例」もたとえに挙げている。

続いて反対派は「規制するとして、作成・頒布・流通・公表・販売といった部分でいえば、どこを取り締まりの対象とするのか」と質問する。これに土屋議員は「(過激な表現でも)個人で描くのは自由じゃないかな。ちょっと人に見せるのも。ただそれをたくさん刷って広く販売しようってなったら問題だよね」と(あくまでも個人的な意見だが)具体的な例を挙げてみせた。土屋議員は他にも売春を例に挙げて、「管理売春は社会的に規制されているけれども、個人間での売春は処罰の対象になっていない」と、社会法益と個人法益の保護範囲の違いを述べる。



ここで児童ポルノの定義について呉から意見が出るが割愛する。続いてタナカが「幼いうちにフィクションで犯罪に触れる方が教育的にはよいのではないか」「子供が読んだものに対して大人がどのように教育していくかが大事ではないのか」と主張するも、これは土屋議員に教育的に重大な点が欠けていると否定され、人格形成の段階において年齢に相応しいコンテンツを与えるべきだと指摘される。その後、土屋議員から「小学生は小説なんて読まない」といった発言が出る。

あとは何度か同じ討論が繰り返されて終了の時間を迎える。


討論総括

まず、個人的に全体の印象を述べると反対派は土屋議員に押し切られた感じが否めない。緊張があったのか、事前の勉強不足なのか、発言の内容が不明瞭であったり、土屋議員の発言の意図を汲み取れず、語気が荒くなる場面も多かったように見える。ただ、その中でも土屋議員から多くの意見が出たのは検証の材料になる。

土屋議員が冒頭にマフィアの言葉を借りて「需要があるからいけない」と、児童ポルノなどの利用者を規制する方向に舵を切った欧州を語っているが、こういった利用者の側を取り締まっていく傾向は現代では珍しいことではなくなっている。著作権法でも「違法アップロード」を取り締まればよいところを「違法ダウンロード」に刑罰の対象を広げてきたことは記憶に新しい。これについても「アップロードする者を取り締まればいいはず」と指摘されており、実際に「違法ダウンロード」による逮捕者も出ていないのが現状ではある。しかし、萎縮効果なども狙っているのか、とりあえず法として「違法ダウンロード」は存在している。

土屋議員は創作物の規制に関しては終始、(児童ポルノのように実在の個人に被害が無いゆえに)社会的法益の観点から規制の必要性を説いている。反対派としては「法規制するのであれば、それに足る科学的な根拠を示してほしい」というところが問題点であるが、土屋議員に言わせれば、それは「実証は必要ない」ということになるようだ。わいせつ罪についても「社会的な影響力を鑑みて決められることであって、規制したから明確に効果があるといった関係性は必ずしも必要ではない」と主張している。つまりこの点において、規制派と反対派は明確に対立している。

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ただ、土屋議員がチャタレー事件を論拠に社会的法益の保護を訴えているが、チャタレー事件の法廷判断は現代では支持されておらず、上記書籍においても「チャタレー事件」、「悪徳の栄え事件」、「四畳半襖の下張事件」とわいせつ概念の要件が徐々に狭まっていることが挙げられている。(これは本編中でも呉が指摘しているが)チャタレー事件ではわいせつか否かのみを要件としており、その内容の精査、及び芸術性などは問われなかった。

ゆえに現代において「わいせつ罪」で創作物を取り締まるには、おおまかに ①わいせつであるか否か ②該当する表現箇所 ③芸術性等の考慮 という点が問われるようになっており、単純に創作物を取り締まることは難しい法律となっている。これについては谷垣法務大臣による説明が本編でも添えられている。しかし土屋議員の主張するように、現代においても社会通念を優先するために個人法益が制限される法律となっていることは事実である。だが制限される根拠は以前として判明していない。

この点については法学者からも常に、刑法175条わいせつ罪は正当な法律といえるのか(合憲性はあるのか)、社会通念が何を基準として個人法益を制限するのか、という点が繰り返し指摘されている。これらの点が長きに渡り議論され、疑問視されていることを土屋はあえて語らずに「社会通念(社会法益)によって個人法益が制限される事実はある」という点のみを強弁している。しかし、土屋のこの姿勢は国会では否定されており、「社会的に法規制を設けるにあたり、それが充分に納得できるだけの根拠をもっていなければならない」と繰り返し反論されている。

その根拠となるはずの影響についての調査研究だが結局は「行われない」ことが規制派にとって一番有利なのではないかと推察する。調査研究を行えば、実際に影響力があるということを証明しなければならない。特殊な例を用いればそれは容易に可能だが、もっと汎用的なサンプルが必要である。つまり個別の事案による単純な「因果関係」ではなく、広く抽出した結果に得られる「相関関係」が求められるのである。それを抽出できなければ、結局は反対派に有利な根拠を与えてしまうことになる。つまり暗黙に「関係がない」ということを証明してしまう。であるならば、「調査研究をしないこと」が現状では規制派の最高の選択ということになる。
(参照: 今さら人に聞けない「相関関係」と「因果関係」の違い

土屋議員が必要性を訴える「社会的法益(犯罪の予防的処置)としての残虐な表現物の規制」は、明確な根拠はなくとも現代社会に漠然とした不安として存在し続けるものであるのは確かだ。わいせつ概念のように「社会風紀」の維持のために蓋然的である(起こりうると考えられる)ために規制が認められるような雰囲気は確かにある。しかし、そのモデルとして現在施行されている「わいせつ罪」が法規制の根拠を証明できる法律でないことも確かで、そのために曖昧な判決を生み出してしまっているのも事実である。それを危惧するのであれば、同様の趣旨となる新たな法規制を設けるにあたり、充分なまでの根拠が求められるのは法学が高度化した現代においては必然であるといえる。



今回、TVタックルからさらに個人的に踏み込んだ論を聞くことができたために明確になった点は、規制派が反対派から「規制ありきの発想」と非難される原因が、この「社会的不安を解消するための立法」という趣旨に見ることができる。上述したようにこのような漠然とした社会的不安は確かにある。だが「規制したら改善される・防止される」という確証もない。あくまでも「漠然とした不安」、そしてその解消にすぎない。では、その確たる証拠もない状態で、漠然とした不安のために国民の自由が制限されてもよいのだろうか?

この点について反対派であれば「いいわけがない」と反論するのだが、規制派は「(確証がなくとも)不安を解消したい」という方向に動いてしまうために議論の余地がない。この集団心理的な現象は個々人の理性によって抑制されるが、誰もが恐怖や不安と常に対峙できるわけでもなく、「何となく怖いから」といった理由で迫害や差別が起きてしまうことは歴史上に散見されるとおりである。今回の立法方針もそういった漠然とした社会的不安が後押しとなっていることは間違いないだろう。

反対派から繰り返し指摘される「感情論や印象論にすぎない」といった点もまさに、そういった漠然とした不安という根拠のない点に由来するのであろう。そこで、改めて「どうするべきか」という点に戻ってくる。集団心理としての社会的不安であれば、やはり「関連性はない」ということを強く示していくことが不安の解消に繋がるであろうと予測される。問題は、法規制を防ぐと共に、人々が抱えているであろう社会的な不安を取り除くことにある。特に昨今では警察や報道が「過激なアニメやマンガが犯罪を助長している可能性がある」と無根拠に大々的に報じ、社会的な不安を扇動していることは批判されて然るべきだろう。



土屋議員が主張するような「過激な表現物」の規制は果たして本当に必要なのだろうか。上述した社会的な不安の解消という意味では、「過激な表現を不要に描かないこと」も妥当性が出てくるのだろうか。TVタックルでも江川達也が「描かれる内容による」という点を繰り返し強調している。これは「アニメーションの事典」でも岡隆が「暴力的な描写を入れるにしても、その描かれ方(文脈)が重要である」と論じていたとおりである。暴力シーンを入れるにしても、それを肯定的に描くか・否定的に(よくないものとして)描くかで、見るものに与える印象や影響は異なるとされている。

一時期、エロマンガ業界では「強姦はNG、和姦ならOK」という判断基準が広く知れ渡ったことがあった。青年向けコミックが法的な取り締まりを受けてのことであったが、では児童(に見えるキャラクター)を性的対象とする表現において上述したような「肯定か・否定か」という観点から、この「強姦か・和姦か」という描き方の違いは果たしてその役割をもつのだろうか。岡隆が論じる「肯定・否定の違い」は、暴力シーンであれば「暴力はいけないものである」ということや、「暴力を振るった者が一定の制裁を受ける」など、暴力を振るうことによってリスクやコストが生じることを描く必要性について論じている。

その文脈でいけば、「強姦にせよ、和姦にせよ、児童(に見えるキャラクター)を性的対象とする社会的規範から外れる行為自体が否定的に描かれなければならない」ということになる。例えば「名探偵コナン」では、犯罪を犯した者は必ず検挙されて終わる。「犯罪を犯すと捕まる」という文脈によって犯罪を否定的に描いているのである。となれば、強姦にせよ和姦にせよ、「児童(に見えるキャラクター)の性的描写」を肯定的に描いてしまうことは、岡が論じるような描き方になっていないといえるだろう。

仮に、自己の妄想を創作物によって強化し、自らの意志で実際の犯行に移す人間がいたとして、見た作品が「和姦」という描かれ方であれば、「児童は犯されても、創作物の中のように受け入れた態度をとるに違いない」と妄想を強化する恐れもある。であるならば、「(和姦ではなく)強姦をされた児童がそれを拒否する反応」を描いたほうがよいようにも思える。とはいえ、それが特定の人間の嗜虐性を刺激するのであれば、どのみち描かれるべき表現ではないとされてしまうとも考えられる。

土屋議員も本編では「成人の男女が合意の上でプライベートな性行為に及んでいる作品に関しては、(現代の社会通念と照らし合わせて)法規制の必要はないだろう」と述べている。逆に言えば、成人の男女における性交であっても、それが「強姦」といった反社会的な描写であったのならば、やはり法規制の対象にされると考えられる。他にも、和姦による集団性交であった場合にはどうなるのか、和姦であっても(現代の社会通念と照らし合わせて)「乱交」ということでアウトになりそうではある。そして、近親相姦・同性愛・児童(18歳以下に見えるキャラクター)の性的描写は、強姦・和姦といった点を問わずに、現代の社会通念と照らし合わせ、反社会的ということで描写自体がアウトということになる恐れがある。

しかし、この「描写自体がアウト」という法規制と、岡隆が論じるような「肯定・否定による書き分け」では、強制力が異なる。仮に法規制が敷かれるとなれば、岡の提言するような「肯定・否定による書き分け」すらもできなくなってしまう。江川が主張した「内容によりますよね」という意見も意味を成さなくなってしまう。無論、わいせつ罪のように「芸術性」などを慮って一定の酌量が与えられる可能性はあるが、「松文館裁判」を省みるに、コミックなどは法的保護の価値が低いという見方が強い。この点は本編でもタナカが指摘していたように、法規制によって「表現そのものが消えてしまう可能性」を示唆している。



では、ゾーニングや自主規制の有無についてはどうだろうか。サガミヤは本編でゾーニングについて「R-18のものでも規制するのか」といった点で言及したが、土屋はこれに「年齢制限は関係ない。過激な表現自体が問題」と回答している。つまり土屋の掲げる規制案ではゾーニングは意味を持っていないことが表明されたに等しいが、土屋は後半部分で、廣田から「実写のドラマなどにも過激な表現はあるのに、なぜマンガやアニメばかりを標的にするのか」と指摘され、「だって他のものは実写で規制されてるんだから」と自主規制の有効性については認めている。

ここから土屋の意向を汲み取ると、年齢制限や販売区分といったゾーニング(仕分け)がされていても、「過激な表現が市場経済に溢れていること自体が問題」としており、それを「自主規制する(表現自体を不可能にする)ことは有効である」と論じている。土屋はマンガ・アニメ・CGに限らず、過激な表現に対する法規制の必要性を「犯罪などが助長される恐れがある」という、漠然とした社会不安に求め、これら不安をもたらすものを「アンチモラル(反倫理的・反道徳的)な存在」とし、改めてこれらに法規制が必要であるということを終わり近くで論じている。

土屋議員が常に根拠として取り上げる実例の犯罪と、漠然とした社会的不安の2点であるが、これは例えば「ロードレーサーに乗っている人間が凶悪な事件を起こした」と、そこから逆算して「凶悪な事件を起こした人間はロードレーサーに乗っていた」と、そして「ロードレーサーはそのスピードによって人間の興奮をかきたて、暴力性を助長する恐れがある」と、そして「それに不安を感じている社会情勢がある」と、そして「こんな暴力性を助長するような自転車が市場に出回っていていいのか」と、「社会的不安の解消のために、自転車(ロードレーサー)の法規制が必要だろう」と、まあ、このように言い換えることもできる。

言いがかりのようではあるが、実例を出すとすれば、「喫茶店」や「ゲームセンター」や「ロックンロール」なども、その時代時代では「恐ろしいものだ」「規制してしまえ」という社会的な風潮が強かった時期があったのである。ただ、それは安保闘争時代に喫茶店がセクト(分派)の拠点となっていたことや、ゲームセンターが不良・チンピラの溜まり場であったとか、「ロックンロール」という価値観が破壊的だとする時代的な背景を伴うものであって、現代ではこれらが「危険」という感覚は薄い。これらに代わって、現代でいえば「クラブ」が犯罪の温床になっているという不安から取り締まりが強化された実態もある。

これと同様にと言ってしまっていいのか、土屋議員が論拠としているマンガ・アニメ・CGといった創作物に対する漠然とした不安も、後の時代になってみれば「大したことではない」かもしれない。ビートルズやジミ・ヘンドリクスが旋風した時代に「けしからん」と言われていたのが、いつのまにか当たり前になってしまったように、過激な創作物も「空想は空想、現実は現実」という分別をもつことが当たり前になり、気兼ねなく創作物を楽しめる未来が訪れるかもしれない。それとも逆に過激な創作物は姿を消して、無難なものだけが残っていくか。

よくある空想だが、漫画「攻殻機動隊」や、映画「マトリックス」のように頭の中に直接刺激を送れる時代になったらどうなるだろうか。「頭の中の犯罪」も取り締まるのか。それこそ「空想の犯罪」が取り締まりの対象となるのか。そのとき紙やデバイスに表示される創作物はどういった扱いになっているのか。「そんな刺激の少ないものは何も問題がない」となっているかもしれない。だが、現実に話を戻すと、現代で過激な表現物に漠然とした不安を抱く人達がいるのは確かだ。そういった人たちは確証なく規制を支持するだろう。

END

「クソオタク」という言葉はよくないが、そもそも児童と創作物の関連性について「表現規制することで児童を守ることができる」という主張自体に根拠がないのだから、児ポ法は別としても、表現規制への反対に関して「児童の保護」を必要以上に盛り込むべきでないということは考えさせられる。




追記: 規制派が「小説は問題ない」と強調する理由

本編の中でも土屋議員は「小説は影響がない(絵や映像の方が影響が強い)」ということを繰り返し述べ、「小学生は小説なんて読まない」という発言まで残している。どう考えても創作物からテキストだけを外すということは破綻していると考えられるのだが、規制派が小説を規制対象からしきりに外そうとする背景を推察すると、東京都知事を務める石原慎太郎氏の存在が浮かび上がってくる。

現在、東京都では都条例により、「青少年健全育成」を巡り、創作物も含めた規制が実施されている。それにより「妹ぱらだいす2」が、「近親相姦といった反社会的な行為を”肯定的に”描いている」として規制された。この都条例の「青少年健全育成条例」は、法案として提出されることも検討されているものである。つまり「児童ポルノ」の次は、「青少年健全育成」といった名目で、創作物を規制する可能性が出てきている。これは他方でもすでに指摘されている通りである。

そして、この都条例を率先しているのが他ならぬ石原慎太郎都知事なのである。この石原氏が関わることと、表現規制から小説が外される背景には、石原慎太郎自身が不倫や暴行を描いた小説の作者であるからに他ならない。つまり、もし表現規制に「現在・過去・未来」を問わず、流通している問題のある表現を取り締まるとなった場合には、規制を率先している石原氏自身が捕まってしまう可能性がある。規制を取り締まる側がこうなっては立場がない。

そこで「小説は影響がない」「小説は表現規制から除外する」といった主張が出てきているのではないかと推察される。石原慎太郎都知事は規制に関してかなり強い調子で創作物を批判しているが、そういった政治的ポーズの裏に「小説は外す」という保身も伺わせる。ただし、これも「権力者の特権」と言ってしまえばそれまでで、そんな人間に権力を握られてしまったが故の悲劇でもある。

こういった点に関して岡田斗司夫は土屋議員の政治活動に言及して、「こういうマンガ・アニメを規制しようって言ったほうが有権者であるお年寄りの票を稼げるんです」と指摘している。同様に石原都知事も「表現規制」を公約に挙げたほうが支持が集まるだろうことが予測される。とくに「団塊の世代」への認知度が高い人物である。それだけで高い得票率をえられるだろう。人口比率的にいって若者が選挙に行っても、この世代の票を覆すことはなかなか難しい。

表現規制から都合よく小説が外されることを不公平に思うか、民主制によって作られた権力者の特権と受け入れるべきか。あと30年後には漫画家が政治家になり、マンガを規制から除外する未来がくるかもしれない。

(参照: 都条例問題:半世紀経っても昔と同じ批判に晒されるマンガと、今日では社会的権威となった小説の差


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